筑地鉄砲洲にあった塾舎を芝新銭座(现在の港区浜松町)に移し庆应义塾と命名したのは、150年前の1868(庆応4)年4月のこと。政治、経済から文化や教育にいたるまでさまざまな変化の真っ只中の时代であり、5カ月后には年号が明治に変わる。この移転と命名は、10年前に创立された福泽諭吉の小さな兰学塾が、现在の庆应义塾へと飞跃するターニングポイントだったと言えるだろう。
なぜなら命名直后に発表された『庆应义塾之记』において、庆应义塾は福泽の私塾ではなく、洋学を志す同志が自発的に结社をつくって経営する近代学校として発足したことと、士族、民间を问わず志のあるものを受け入れることが宣言されているからだ。义塾之记に「彼(か)の共立学校の制に倣い」という言叶があることから、福泽がイメージした「义塾」とは、イギリスの私立学校、パブリックスクールのことだと思われ、西洋の共立学校の制度に倣って组织?运営された。
なお义塾という呼称は、それ以前にもまれに使用例があるにはあるが、庆应义塾がきっかけで広く知られるようになり、全国各地の私立学校で好んで用いられた。
また「庆应」とつけたのは「创立の年号に取て仮に庆应义塾と名(なづ)く」とあり、その时点で「仮に」とあるように、ごくシンプルな命名だったと思われる。
しかしながら、同年9月に年号が明治に改められた后も庆应の名は変えなかった。このことについて、福泽が明治新政府からの度重なる招聘(しょうへい)に一贯して応じなかった态度に络めて非难する声もあったが、福泽はそんな声を一顾だにしなかった。自由に発言できる民にあってこそ、福泽の存在は意味がある。