日本で最古の私立小学校の一つである幼稚舎の起源は、1874(明治7)年、福泽先生が高弟の一人である和田义郎に年少の塾生の教育を託したことにある。
幼稚舎设立の背景には、福泽先生と庆应义塾の名声が世に高まるにつれ、全国から集まってきた塾生の中に年少者が増加したことがある。そのため叁田山上には幼稚舎设立以前にも「童子寮」という年少者用の寄宿舎が设けられていた。また、当时は福泽先生や庆应义塾の教员たちの子女の多くが学齢に达しており、次第に「童子寮」より年少者を教育する正式な初等教育机関创设の机运が高まっていた。
福泽先生から初代幼稚舎长を任された和田义郎は、旧和歌山藩士で、かつて藩の留学生として鉄砲洲の福泽塾で学んだ。子ども好きの和田夫妻は、叁田山上の自宅に年少の塾生たちを寄宿させて、教育を行った。そのため、当初は「和田塾」という通称で呼ばれていたが、1880(明治13)年顷より「庆应义塾幼稚舎」と称するようになった。
幼稚舎では、全寮制を原则とし、外国人教师を雇い低学年からの英语教育に力を入れるなど、当时の公立小学校には见られぬさまざまな教育上の特色があった。柔术に秀でていた和田は、福泽先生の意を受け、勉强ばかりでなく强健な身体の育成にも力を入れた。なお、当时の幼稚舎は原则として7歳から13歳までの学童を対象とする学校だったが、あまり厳格な学年制を採らず、现在の中学生、高校生に相当する塾生も受け入れており、きわめて柔软な学校运営を行っていたようである。