1950(昭和25)年、イリノイ大学図书馆长兼図书馆学校长のロバート?ダウンズ教授が、「日本図书馆学校」创设のための委员长として、図书馆学科设置候补と目されていた东京大学、京都大学、早稲田大学、庆应义塾大学を视察のため来日した。来塾したダウンズ教授を迎えた潮田江次塾长(当时)は、まず、わが国における官学と私学の区别を説明し、「新学科は私学に於いてこそ、その特质を発挥できる」と力説した。しかし、戦灾で多大な被害を受けた庆应义塾が提供しうるものは「教室二つ」に过ぎないことも申し添え、义塾が选ばれる见込みは薄いと内心では考えていたようだ。
翌年、今度はワシントン大学図书馆学科长ロバート?L?ギトラー教授が、日本図书馆学校初代主任教授として来日。再び図书馆学科设立のための绵密な调査を行い、慎重に検讨した结果、庆应义塾に図书馆学科を设置することが决定された。
実はギトラー氏は、庆应义塾の外事部长の任にあった清冈暎一法学部教授(当时)が英訳した『福翁自伝』を入手しており、同书を通して知った福泽諭吉の精神と日本の近代化に果たした大きな役割に深く感铭。そのことが、図书馆学科设置决定の大きな要因となったのである。时代を超え、国境を超えて、福泽先生の言叶が人の心を打ち、そのことがわが国における新しい「実学」分野である図书馆学の创始に结びついたのである。清冈名誉教授(故人)は当时を振り返って「结局、塾の精神的特长が物的不足よりも高く评価された」と述懐している。