1956(昭和31)年のメルボルン大会で、义塾端艇部エイトクルーの9人は、日本ボート史上初のオリンピック準决胜进出を成し遂げた。名艇「碍贰滨翱」号によるこの快挙は、工学部(现:理工学部)による力强い支援の赐物といえる。それまで端艇部の活动には、ボートに情热を注ぐ塾生の多かった医学部が、选手の健康?体调管理、レース合间の酸素吸入やブドウ糖注射などで协力していたが、このオリンピック大会に向け、スポーツにおける“医工连携”ともいうべき、わが国の大学では例を见ない强力なバックアップ体制が敷かれた。
メルボルン大会出场のための国内予选を胜ち抜いたのは、工学部2年生で端艇部员であった小幡一雄君が设计を手がけた「グルノーブル」号。全日本选手権兼オリンピック代表决定戦で、优胜候补だった京都大学を下したこの艇は、太平洋横断を成し遂げた堀江谦一氏の「マーメイド号」の设计者でもある横山晃氏を「小幡君の船に负けた」と言わしめるほど优れた性能を持つ艇だった。