北里柴叁郎博士は1853(嘉永5)年に现在の熊本県で生まれた。东京医学校(现?东京大学医学部)を卒业后、内务省卫生局に职を得る。1885(明治18)年、ドイツに官费留学。细菌学の第一人者、ローベルト?コッホに师事し、破伤风菌の纯粋培养に世界で初めて成功し、破伤风菌の作る毒素とその抗毒素抗体を発见。その抗体を动物の体内で作らせて治疗に使う「血清疗法」を确立し、その名を世界にとどろかせた。1892(明治25)年に帰国。そして、北里博士が留学最终年に取り组んだ结核の研究成果を待ちわびていた内务省の一同は省内に伝染病研究所を设立するために国会への议案提出、予算编成等の準备を进めていた。当时、结核や伝染病の対策は急务であったが、国立研究所の设立には少なくとも2年は掛かるため、北里の上司であり、终生の后援者となった长与専斋が福泽先生に打开策を相谈に行き、私立の伝染病研究所设立の案と援助の约束を得た。长与専斋は福泽先生と适塾以来の亲友であった人物である。即座に福泽先生は芝公园内の所有地を提供し、私财を投じて私立伝染病研究所の设立を実现した。
2人の亲交はこうして始まった。福泽先生57歳、北里博士40歳の时である。
伝染病研究所は1899(明治32)年に内务省管辖となる。北里博士の指挥监督下で年々隆盛したが、福泽先生は「政府の方针がいつ変わるかもしれないから」と研究资金を蓄えておくように助言。また、それ以前に芝白金の土地を提供し、日本初のサナトリウム(结核疗养所)「土笔ヶ冈养生园」を设立させ、将来に备えさせた。福泽先生の危倶は的中した。1914(大正3)年、政府は突如、研究所の所管を文部省に移し、东京大学の伞下に入れるよう组织がえを図ったのだ。この强引な政策に反対し职を辞した北里博士は、心置きなく自らの研究に取り组むために北里研究所を开设。その开设资金は福泽先生の助言によって蓄财しておいた私财30万円だった。