1927(昭和2)年【写真<5>】には、ラジオで初の庆早戦の実况中継が行われた。义塾は復活后初の连覇を达成し、その年には塾生の発议により応援歌「若き血」が作られた。「若き血」は胜利の盛り上がりの中で全塾生から热狂的に迎えられ、现在まで歌い継がれていることはご存じの通りである。
1933(昭和8)年秋、「リンゴ事件」が起きる。六大学野球のスターだった义塾の水原茂(后年、読売巨人军监督)【写真<6>】は、9回表、叁塁の守备位置についた。水原は激しい野次の挑発にも乗らず冷静だった。すると早稲田応援席からグラウンドに大きな食べかけのリンゴが投げ込まれた。水原はそれを拾い、「守备している姿势のまま逆に壁の方へ投げ捨てた」(水原茂着『华丽なる波乱』)。それが早稲田応援団から「敌対行為」と指弾され、9回里、义塾が逆転サヨナラ胜ちをすると、早稲田応援団が球场に雪崩れ込み、大混乱を引き起こした。騒动自体は誉められたことではなく、庆早戦史上の汚点ともいえるが、両校の名誉をかけての真剣な闘いをよく表すエピソードではある。ちなみに、それ以降、早稲田は一塁侧、庆应义塾は叁塁侧に応援席を设けるようになった。