庆应义塾における成绩表のルーツと言えるのが、小学课程から大学课程までの全塾生の出欠状况と学业成绩を一覧表にした「庆应义塾学业勤惰表」(写真<1>)である。明治4年、庆应义塾が芝新銭座から叁田山上へ移転直后より発行され、当初は毎月、后には年に3回印刷発行されていた。明治4年という年は、叁田への移転ばかりでなく、塾内の规则として「庆应义塾社中之约束」が制定され、カリキュラムが刷新された年で、「学业勤惰表」の発行もこうした一连の新しい动きに呼応したものと考えていいだろう。
「学业勤惰表」は、1册ずつ全塾生に配布され、所定の代金を払えば何部でも购入することができた。つまり、当时は学业成绩を広く公表していたのである。现在、庆应义塾大学では、原则として保証人に成绩を通知しているが、学业成绩の公表は庆应义塾に限らず明治时代には珍しいことではなかった。この时代の学校案内の中には在学生の成绩表が付録となっているものまである。そして明治13年、庆应义塾は当时の文部省から「庆应义塾社中之约束」および「庆应义塾勤惰表」をオーストラリア?メルボルンで开催される博覧会に出品するように要请を受けている。(写真<2><3><4>)これらの资料が実际に展示されたかどうかは定かではないが、わが国の教育を代表する资料として、国外での公开まで考えられていたことは确かである。当时の学业成绩は、今日のように必ずしも个人情报ではなく、パブリックな情报と认识されていたのかもしれない。また、明治期の庆应义塾は、その名の通り私塾としての性格が色浓く、同じ寄宿舎で寝食を共にする仲间同士、お互いの成绩や席顺に関しても、极めてオープンな気风が満ちあふれていたのだろう。「学业勤惰表」の最古の物である明治4年4月発行分には、旧所蔵者によると思われる多くの朱书きが入っており、ここから类推すると、第一等から第四等までの上级生が、第五等以下の下级生を教えていたことが分かる。これは庆应义塾の「半学半教」の実例として贵重な记録と言えるだろう。
なお、「学業勤惰表」は、明治4年4月から10月までは「木版?半紙横斤仮綴」、明治5年9月には「活版?一枚両面印刷」に、さらに明治16年9月より洋装冊子へと体裁がグレードアップしており、明治31年4月のものまで、計91種類の発行が確認されている。またそのほかに、春秋2回の 試業(試験)の成績一覧「慶應義塾大試業席順」(明治4~5年の3回分)も遺されている。