開校記念日制定に限らず、当時の資料が極めて乏しい中で、その経緯を知ることができる資料には、次に挙げる『慶應義塾学報』と『時事新報』がある。そこに义塾の开校记念日のことが載っている。
庆应义塾记念日
庆应义塾が芝新銭座より现今の叁田二丁目に移転したるは去る明治四年四月二十叁日(旧暦にて叁月二十叁日)なれば、义塾にては本年より毎年此日を开校记念日として休校の上种々有益なる催しをなす事とし、同时に従来毎年九月に行ひし寄宿舎记念祭をも同日に行ふ事となせり。(『庆应义塾学报』より)
庆应义塾记念日
四月廿叁日は明治四年庆应义塾が芝の新銭座より今の高台即ち旧嶋原藩邸に移転したる日(旧暦にては叁月廿叁日)に相当するを以て、此日を开校记念日と定め毎年授业を休止して学校を开放し公众の縦覧を许す由にて、当日の各种催しは左の如くなりといふ。(『时事新报』より)
ただ、この记事から记念日を确定するのは难しい。一つは新旧歴换算のずれ(太阳暦の明治4年4月23日と太阴暦の同年3月23日が一致しない)、もう一つは义塾の叁田移転の日と4月23日とを结びつけていることに、无理があるという点である。
また、福泽先生自身の笔なる记事からは、开塾(=创立)と改名(开校记念日)が异なることがわかる。
新年発表の记
今日の会は开塾以来第二十二年、庆应义塾改名より第十二新年の発表なり。(明治12年1月)
ここで言う开塾とは安政5年(1858年)の冬、筑地鉄砲洲での开塾をさす。また、改名の年は庆应4年(1868年)ということになる。