庆应义塾が叁田に塾舎を构えたのは1871(明治4)年のこと。
しかし、叁田に移るまでの间にも几度か塾舎を移転している。「前期鉄砲洲」「前期新銭座」「后期鉄砲洲」「后期新銭座」の4期に分かれるこの间は、まさに义塾の草创期であり、塾舎移転のたびに近代私塾の先駆として、その充実度を増していった。
ここでは、塾舎の移り変わりに见る义塾発祥の歴史に迫ってみたい。
前期鉄砲州(1858年~)
义塾発祥の地は、江戸筑地鉄砲洲の中津藩奥平家中屋敷(现在の东京都中央区明石町、圣路加国际病院あたり)であり、最初は兰学塾としてスタート。奇しくも开塾に先立つこと87年前、わが国兰学の祖、杉田玄白?前野良沢が、この地で『解体新书(ターヘルアナトミア)』を解読している。
前期新銭座(1861年~)
芝新銭座へ移転。最初の渡米以来、恳意にしていた木村摂津守の世话により、芝新銭座(现在の东京都港区浜松町)の小家屋を借り受けることになったといわれる。移転の理由には、幕府出仕のためには长屋住まいでは不都合だった、上位の武士の娘を嫁にもらうのに幕臣として藩から独立した格好をとるためだったなどの説がある。正确な所在地を示す记録はない。