福泽先生が逝去された翌年、明治35年の末顷から、本塾に大学院设置を求める気运が高まってきた。それまでは、どちらかといえば実社会で活跃する人材を多く世に送り出してきた义塾内に、大学とは様々な人材を社会に供给する教育机関であり、学者もまた养成すべきであるとの声が出始め、学生侧からも几度となく要望が提出された。当时、学生の出していた雑誌の社説「所谓学者のオーヴァー?プロダクションとは何ぞや」「学制改革论」から、当时の学生たちの大学院设置に対する热意を知ることができる。こうした気运のなか、明治36年の评议员会では保留に终わったものの、明治39年の第7期第4回评议员会で再び大学院设置が议题にのぼり、ついに可决された。当时の鎌田塾长は「研究心を発掘すべし」(『庆应义塾学报』第101号?现在の『叁田评论』)の中で、この大学院设置が福泽先生の遗志を継ぐものであり、官立学校に见られる弊风を廃して自由研究の気风を养成し、一意専心に学问研究に贡献する人物および豊富な知识と十分な素养を社会で生かせる人物を育成しなければならぬとその趣旨と理想を述べている。