草创期の庆应义塾には、卒业という制度がなかった。幕末の鉄砲洲时代はもちろん、塾舎を芝新銭座へ移して庆应义塾と名のるようになってからも、明治4年に叁田へ移転した当时も、卒业の制度や卒业式は存在しなかった。
新銭座时代~叁田移転のころは、読むべき书物とその顺序が定められ、そこに何段阶かの等级が设けられていた。定められた课程を终えれば一応课业は终わることになっていたが、课程を终えた者は后辈を指导しながら自らは独学を続ける、いわゆる半学半教の形が学问を修めるうえで重视されていた。厳しい见方をすれば、学问を真に成就するのは极めて困难なことであり、さらにいえば学问に成就はないという考え方から、いわゆる「卒业」ということが考えられなかったのである。
卒業の制度ができたのは明治6年。学則改定により「一、此学校にて本等の業を全く終りたる者へは成業の免状を与ふべし。一、事なくして退学する者へは其等級に従で卒業の証明を与ふべし 。」と、課程を終えた者に成業免状を、退学者には等級ごとに卒業証書を与える規定が生まれた。今日でいう卒業は「成業」と呼ばれ、「卒業」は各等級を学んだ者に対して用いられた。翌7年、この規定に従い、義塾の第1回卒业生7名が出た。
その後、明治23年の大学部発足を経て、同26年に大学部第1回卒業式が挙行された。当初、卒業式は三田演説館で行われたが、大正4年には、三田山上に開館した大講堂が会場となった 。しかし、昭和20年には空襲のため大講堂が焼失。やむなく卒業式は屋外の三田山上広場(現在の中庭)で行われることとなった。昭和33年には創立100周年に際して日吉記念館が完成し、翌34年からはここで卒業式が行われ、今日にいたっている。
なお、卒业后25年と50年にあたる塾员の卒业式招待は昭和28年に始まり、今日まで続けられているが、新卒业生と塾员の数が年々増えて日吉記念館の収容能力が限界に達したため、平成5年度卒業式からは卒業後25年の塾员のみを卒業式に招き、50年の塾员は入学式に招待するようになった。アメリカでは以前から、卒業後25年の同窓生を卒業式に招待する大学があるということだが、日本ではおそらく義塾が最初の例であろう。