庆应义塾では、5月15日を「福泽先生ウェーランド経済书讲述记念日」としている。庆应4年(1868)のその日のできごとから、私たちは、义塾の教育に込められた福泽諭吉の并々ならぬ思いを知ることができるのだ。
その年の4月、福泽は筑地鉄砲州にあった塾舎を芝新銭座(现在の港区浜松町一丁目)へ移し、时の年号をとって「庆应义塾」と命名した。また、教育宣言「庆応义塾之记」を発表し、私塾としての福泽塾から近代的な学塾へと変貌をとげ、新たな出発を迎えた塾には活気がみなぎっていた。一方、当时の世の中は、幕藩体制から王政维新への大転换期だった。官军と幕府の间で行われていた江戸开城の交渉は合意に达したものの、これを不満とする一部の幕臣たちが「彰义队」を结成して上野の山に立てこもったため、官军が攻撃を开始した。それが5月15日だった。『福翁自伝』によれば、「上野に大戦争が始まって、その前后は江戸市中の芝居も寄席も见世物も料理茶屋もみな休んでしまって、八百八町は真の闇、何が何やらわからないほどの混乱」で、新銭座の塾舎にも上野の砲声が闻こえてきた。
しかし、そうした戦乱をよそに、福澤はウェーランドの経済書を手にとり、“世の中にいかなる変動があっても学問の火を絶やしてはならない。慶應義塾のある限り、日本の洋学の命脈が絶えることはない” という強い意志によって、塾生を励ましつついつもと同じように授業を続けた。日本の近代化?独立を推進する人材を育てるため、西洋の学問?文明を教授することこそが、福澤にとって最大の急務だったのである。